受容するまで(沙月)
私は診断された病気について知識として最低限のことは知っていたし実感もしていたけれど、障害者であるという私を受容できていなかった。
よく覚えているあの夏の静かな病室で解離の疑いがあると言われたこと。
その瞬間に、
頭が真っ白になり、ジワリと汗が滲んだ。
ただ覚えているのは、その病名は私の病院では診断、及び、治療することはできませんよということだったと思う。
この病院は二件目でした。
一件目は、破壊衝動に耐えられなくなり、このままではヤバイと思い、半ば駆け込むように病院に助けを求めました。
最初の破壊衝動はバスに乗っている時で、ただ怖かった。
私が私の意に沿わない形で変容してしまう恐怖と、陽だまりに冷たい身体で縋り付く、そんな時期だったと記憶しています。
しかし、その病院では、形式的な対応のみで、緊急時の対応はして下さらず、私が倒れた時でさえ、淡々と時間はいついつに予約しましたよね、と返されました。
それが病院を変えた、色々他にもありましたが、一番の原因です。
そこから有名な医師のクリニックに行き、病名を診断され、私はより激しく燃えゆる地獄への一歩を踏み出しました。
この頃あたりから、色々要因はありますが、種に病名のせいで、家族との溝が深まり、悪意により疲れ果てていった私たちは症状は悪化していきました。
気がつけば刃物で腕を切るようになりました。
気がつけば大量の薬で現実から逃げるようになりました。
病的な衝動に苛まれました。
衝動的な行動を、私たちは抑制できず、何度か入院をしました。
入院生活はただ寂しく、夜の静まった病棟でテレフォン電話の暗く寒い部屋で立ち尽くしたのを覚えています。
関わる誰もが疲れて行きました。
私も、母も、知り合いも、少しずつ、周りから人が離れて行きました。
気がつけば、私の身の回りには、母しかいませんでした。
働けなくなりました。
働いている最中に片耳が聞こえなくなり、またふらつき、お客様に怒鳴られた私は倒れました。
翌日、私たちは色々あったけれど、やめました。
もう無理でした。限界でした。
さらに症状は悪化していきます。
薬で、リスカと、破滅への歩みです。
そんな中で彼に出会いました。
私にとって、儚くて、それでいて、力強くて、自分という核を持っている大切な人に。
関わってくださいました。
お話を聞いてくださった。
私たちもたくさんお話を聞いて、色々なことに気づいた。
真っ暗なばかりではない景色が見たい。
その想いから、私たちは必死に、私たちなりに学んできた、歩んできた。
そうして一年近く、入院もあった、odで倒れたのもあった、それでも、なお、諦めずに、必死に学び、掴み、考え、歩み、やっと、やっと、最近になって大きな一歩を踏み出せた。
「病気の受容」
ここまで来るのに数年を要した。
私はなんとなく治療を受け続け、漠然としたもやもやした感情を抱いていた。
今までの長い道のりは、一歩前に踏み出す為に必要な時間だったと考える。
と、ここで気がつくのは、相変わらず、真っ暗なまま。冬のまま。
それでも、私はと歩むし、歩み続ける。